社会人としての常識

常識とは個人がそれまでの人生で培ってきた世の中と折り合いを付けていくためのルール、だと思っている。

 

「それくらい社会人として常識でしょ」と腹を立てる人を見かけるが

そもそも社会人じゃなかった人にそんな事を話しても仕方ないんじゃないかな、と。

 

「それくらい社会人として常識でしょ」とその人が思う常識とはその人にとっての常識であって、当人にとっては今までの人生において常識でなかったかもしれない。

 

それを頭ごなしに「それって社会人として常識でしょ」と怒鳴られて当人はどう感じるだろうか。

「なるほど、そうか、次から気をつけよう」そう思ってくれればとても有り難い。

「そんな事知らなかったし、教わった事もないのにそんな言い方はないんじゃない?」と思われるとちょっと困る。

 

失敗に対して注意するという事は「同じ失敗を二度しないように」という意味をこめて話す事だと思っている。

感情にまかせて声を荒げたり、きつい言葉を使ったところでこちらの意図を組んでもらえるかどうかは分からない。

注意している方の気は晴れるかも知れない、頭ごなしに怒鳴りつけ、謝罪させ、上下感を示す。でもそれで注意された方は次から失敗しないように気をつけてくれるのだろうか?その後も気持ちよく仕事をしてくれるのだろうか?

 

失敗をしてこちらがどれだけ困っているかを伝えるためには怒ることが必要だ、と教わった。間違ってはいないと思う。でも自分はその失敗で自分がどれだけ困っているかを伝えたい訳ではなく、もう二度としないで欲しい、と伝えたいのだ。

 

感情的になるとエネルギーをすごく使う、それでなくても失敗のフォローでエネルギーを使うというのになぜ、下の人間にまでエネルギーを使わなくてはいけないのか。

そんなエネルギーを使わなくても普通に話せばいい、普通に叱ればいい、怒鳴る事のメリットがイマイチよく理解できない。

 

それでも会社から怒鳴れと言われたら怒鳴りますよ、それが仕事ですから。

 

なので怒鳴られる方も「こいつ、いつもうるせぇな」と思うだけじゃなく、中にはこうゆう風に組織からそうするように強要されている人もいるので「あぁ、嫌われ役を押しつけられて可哀想だな」とかってたまには思ってみてください。

 

 

見返り貧乏

良かれと思ってアレやコレやと骨を折ったり、面倒を重ねてきたりしたつもりだった。

でも結局は回りに良く思われたい、みんなの為にがんばってる自分って格好いいとかっていうナルシスト的な類のもんだったんだなぁ、と気づいた、というか気づいてたけど気づかないふりをしていたといった感じ。

 

完璧でありたいと思うけれど、完璧などありはしないのだから身の程を知り、

給与という見返りをもらっているのだからそれで良しとしよう。

 

人にはそれぞれその人なりの考えがあり、生き方がある。

立場が違えば見え方、感じ方は違う、上には上の、下には下の見え方、感じ方がある。

下の声は上に届くほど大きな声ではないし、上は下なんか見るヒマもないのだろう。

 

なかなかに難しい、一先ずこうゆう時はじっとしていよう。

余計な事はせず、何かが動くまでじっとしていよう。

それで何かが手遅れになったとしてもそれはそれで仕方の無いことだ。

どうにもならない事はどうしたってどうにもならい、それが現実。

 

 

立場が変われば見えてる物も考え方も変化する

人前で話をする機会が増えた。

自分が小学生だった頃、朝礼とかで校長先生が壇上に上がって色々と話していたことを思いだす。

当時は「早く終わって欲しいな」と思うだけで話の内容などちっとも聞く気もなかったのを覚えている。

 

自分の考え、というか求めている事を他人に正確に伝えるのは難しい事なんだな、と思い知らされた。

それとこちらの話に耳を傾けずに、ただ話が終わる事をじっと待っている相手と話をするってのはけっこうエネルギーを使うのだな、というのも実感した。

 

そうゆう事もあって学校の先生というのは実はけっこう大変なんだろうな、と思うようになった。

先生、当時はすみませんでした。

 

 

 

 

 

 

仕事は覚えるものなのか、教わるものなのか

ろくに教えもしないくせに失敗したらあーだ、こーだとケチを付ける。

やる気がないだの、意識が低いだのと、やり方も教えない人が言えた科白かと思う。

 

そう伝えると今度は「そんな簡単な事をいちいち教えないといけないのか」と返される。自分が出来る事は全ての人が出来てあたりまえ、と思っているらしい。

 

仕事は覚えるものだけど、教えてもらわないとわからない事もあるんじゃないですかね?

教える事が出来ないのなら、ある程度の失敗には寛容になってあげましょうよ。

それが教える事をサボってきた人が取るべき責任なんじゃないの?

 

 

薄いのではない、薄っぺらいのだ。

薄っぺらい、今の自分を形容する表現するとすればこの言葉以外に思いつかない。

 

TVよりネットの方が面白い、そう思ってここ数年はテレビを見る代わりにインターネットを利用していた。

 

利用し始めた時は積極的に色々なサイトを見つけてはそこに書かれている情報を頭に詰め込んでいた。

書いてある内容も面白かったし、読んでいて苦にもならなかった。

自分が気に入ったサイト管理人の相互リンクなどを利用してさらに先のサイトへ飛んで行き、またそこで様々な情報を得ていたものだ。

 

だが、気がつけばネットをしていても毎日決まったサイト(ポータルサイトまとめサイト)を1つか2つ巡回して、スポーツニュースサイトを見てブラウザを閉じる、そんな日々になっていた。

 

自分で探す、という事をやめ、画面に表示されるリンクをただただ辿っていく、そんな作業めいた行動を繰り返していた。

 

そんな毎日を送っていたらいつのまにか薄っぺらい、中身のない人間になっていた。

誰に迷惑をかけている訳でもないと思うからそこまで悲観するつもりはないが、

なんとなく「人生詰み始めたかもな」と感じた。

 

貯金はそれほどないが、借金はないし、普通に仕事もしている。

けちくさい管理職ではあるがまぁ、仕事にそれほど不満はない。

人がうらやむほど幸せでもないけれど、逃げ出したくなるような辛い状況ではない。

 

狭く暗い井戸の底に張った温い水に浸かっているような気分だ。

こうゆう時は何か変化が訪れるまでじっとしていると良い、という話をどこかで読んだような気もするが、根がせっかちなのでなかなかどうして落ち着いていられない。

 

さて、困った。どうしたものか。

 

 

 

 

 

出る杭は叩かれずに引っこ抜かれて捨てられる

会社に愛想のない人がいる。

その人は特定の人としか笑顔で会話をしない。(感じがする)

もちろん僕はその特定の人に含まれてはいない。

 

直接、尋ねた事はない(とてもじゃないが、そんな雰囲気ではない)が

他人にどう思われても気にしないといった風に見える。

 

その人はとびっきりの美人という程でもないが、

それなりに整った顔立ちで昔から異性には良く声をかけられていたらしい。

 

なので僕のように周囲に馴染むように気を遣ったりしなくても

普通に誰かしらが声をかけてきたり、かまってくれていたようだ。

ただ、同性からはすこぶる嫌われていたらしい。

 

同性から嫌われて孤立した時にその人は同性との関係を修復するのではく

異性のグループに溶け込むことでその時期をやりすごしたらしい。

 

その人がどういった気持ちでそういった行動をとったのは分からないが

目立つという事は大変なんだな、と思う。

 

ただ、僕の友人の中にはそうゆう風に回りより少し目立っていても

周囲と上手くやっていた(もちろん多少のやっかみはあった)人もいる。

 

その人と友人の違いはなんだったんだろうな、と考えていたら

仕事でミスをした。

 

自分の失敗を他人のせいにするのはとても楽だ。

問題は何一つ解決はしないのだけれども。